初代 川北三郎兵衛
川北三郎兵衛は伊勢の侍でしたが幕末の動乱期に武士を廃業して江戸に出て、一時下総(千葉県)に移り住みました。
伊勢湾の貝を食べて幼少年期を過ごした初代は近くの印旛沼から採れるエビ、フナ、ワカサギ等を加工して売ることを覚え再び江戸に移り、浅草・観音堂を目前に見る大川橋(現在の吾妻橋)のたもとに新居を構えたのが明治2年(1869年)。これが海老屋總本舗のはじまりです。当時の隅田川は水質が良く、白魚、エビ、フナ等がよく採れ大消費地である浅草が近かったこともあり商売は軌道に乗り店の基礎が固められました。
創業当時の主力商品「海老の鬼がら焼き」「鮒すずめ焼き」は、それまで佃煮と言えばただ醤油で煮るだけのものでしたのをタレをつけて焼き上げたのが珍しがられ、海老や小鮒を焼き鳥の様に串に刺した姿も界隈で好評を博しました。
伊勢湾の貝を食べて幼少年期を過ごした初代は近くの印旛沼から採れるエビ、フナ、ワカサギ等を加工して売ることを覚え再び江戸に移り、浅草・観音堂を目前に見る大川橋(現在の吾妻橋)のたもとに新居を構えたのが明治2年(1869年)。これが海老屋總本舗のはじまりです。当時の隅田川は水質が良く、白魚、エビ、フナ等がよく採れ大消費地である浅草が近かったこともあり商売は軌道に乗り店の基礎が固められました。
創業当時の主力商品「海老の鬼がら焼き」「鮒すずめ焼き」は、それまで佃煮と言えばただ醤油で煮るだけのものでしたのをタレをつけて焼き上げたのが珍しがられ、海老や小鮒を焼き鳥の様に串に刺した姿も界隈で好評を博しました。
二代目 利助
初代から家業を引き継いだ利助は、佃煮が全国的に普及され始めていたので、いつまでも「江戸は辛口、上方は甘口」に囚われていてはいけないと考えて、関西に修業に出ました。
紫蘇、生姜、胡麻、山椒等の香味料を使った複雑微妙な味付けは上方料理の独壇場でした。二代目の味修業はこの香味料の秘訣をつかむところにあった様です。
当時、江戸は辛口が常識でましてや佃煮に砂糖を使うなどもっての外と言う風潮の時代に独特の味わいを持たせる為に砂糖を加えて甘辛く煮ることを始め、以来海老屋の味はやや甘口なのが特徴となっています。
紫蘇、生姜、胡麻、山椒等の香味料を使った複雑微妙な味付けは上方料理の独壇場でした。二代目の味修業はこの香味料の秘訣をつかむところにあった様です。
当時、江戸は辛口が常識でましてや佃煮に砂糖を使うなどもっての外と言う風潮の時代に独特の味わいを持たせる為に砂糖を加えて甘辛く煮ることを始め、以来海老屋の味はやや甘口なのが特徴となっています。
三代目 光雄
三代目光雄の時代は、商売は順調でしたが大正12年(1923年)9月関東大地震、昭和20年(1945年)3月東京大空襲と2度にわたって家業存続の危機に遭いました。
特に東京大空襲では店舗、家屋が全焼する程の大きな被害でしたが苦心の末に現在地に店舗・家屋を建て直し法人化したのが昭和23年(1948年)でした。
その後、築地店の開設、都内百貨店への出店と店舗を拡張計画中に病に倒れ昭和25年に亡くなりました。
特に東京大空襲では店舗、家屋が全焼する程の大きな被害でしたが苦心の末に現在地に店舗・家屋を建て直し法人化したのが昭和23年(1948年)でした。
その後、築地店の開設、都内百貨店への出店と店舗を拡張計画中に病に倒れ昭和25年に亡くなりました。
四代目 利雄
三代目光雄は三男三女に恵まれましたが、長男は歯科医の課程修了前に病死、三男と三女は幼くして病死しました。
光雄の死後、内科医であった次男の利雄が家業を継ぎました。
光雄の遺志を継ぎ昭和32年には浅草仲見世店を開設、全国の百貨店に出店する等店舗網を拡張すると共に、現代の嗜好にあわせた薄味の『若煮佃煮』を開発し好評を得ています。
光雄の死後、内科医であった次男の利雄が家業を継ぎました。
光雄の遺志を継ぎ昭和32年には浅草仲見世店を開設、全国の百貨店に出店する等店舗網を拡張すると共に、現代の嗜好にあわせた薄味の『若煮佃煮』を開発し好評を得ています。
五代目 学(代表取締役社長)
利雄の長男。都市銀行勤務を経て平成14年入社し平成16年に五代目を継いでいます。
『温故創新』の社是に従い、現代の味覚に合った佃煮創作に社員一同日々努力しています。
『温故創新』の社是に従い、現代の味覚に合った佃煮創作に社員一同日々努力しています。
屋号の由来
屋号は主力製品が『海老の鬼がら焼き』であったので『海老屋』としました。又、ピンピンとよく跳ね上がる-商売もそれにあやかって、という願いが込められてます。
登録商標
川北家の家紋「蔦」と、丸の中にイの一番の「い」の字を太めにかたどったものです。
「い」はイロハの最初の字、商売もその様にと「蔦」と組み合わせて社章としています。
「い」はイロハの最初の字、商売もその様にと「蔦」と組み合わせて社章としています。
トップページでご紹介しております「君知るや~」の詩は、国文学者で元二松学舎大学学長の塩田良平氏によるものです。
二代目 利助
三代目 光雄
戦後復興した当時の店舗